桜島の歴史

桜島西部の横山にある城山(桜島自然恐竜公園)は古い時代に形成された台地であり、少なくとも約11万年前には陸地として存在していたと考えられているが、残りの大部分は地質学的に最近の火山活動によって形成された非常に新しい火山である。
約2万9千年前、姶良カルデラで発生した入戸火砕流と姶良Tn火山灰の噴出を伴う巨大噴火(姶良大噴火)によって現在の鹿児島湾の形が出来上がった(右衛星写真の鹿児島湾奥部、桜島より上の部分に相当)。桜島はこの巨大カルデラ噴火の後に火山活動を始めた。約2万6千年前、鹿児島湾内の海底火山として活動が始まり、安山岩やデイサイト質の溶岩を流出しながら大きな火山島を形成していった。約1万3千年前には北岳が海上に姿を現し、この頃に北岳から噴出した火山灰の地層は九州南部に広がっておりサツマ火山灰と呼ばれている。

700年の休止ののち、文明の噴火

文明3年(1741)から10年の間に5 回もの噴火が記録されています。なかでも文明8年(1476)の9月12日の噴火が最も大きく、桜島の東側黒神付近がら溶岩が噴出しました。この噴火で島の南西部に新しい島ができ、桜島本島とつながり今の燃崎ができました。沖小島や烏島も当時溶岩が湧き出してできた島と伝えられています。


Records show that during the third(1471) and tenth(1476)year of the Bunmei era, Sakurajma erupted violently five times. On September12,in the eight year(1476) of the Bunmei era, me largest eruption occurred. Lava gushed out of the east side of Sakurajima, near the Kurokam district.In this eruption, new islands and Moezaki

was created land Sakurajima joined itself to the mainland. This area is now known as Moezaki.it has been said Okikojimaand karasujima were created at that time.

井戸も湧いた、安永の大噴火 Well Water Boiled During the Anei Eruption

安永8 (1779)年10月1日、南岳の南側中腹から爆発が起こり、井戸水が沸騰、海水は紫色に変わり、激しい鳴動が小石や灰を一面に飛ばしました。あたりは真っ暗、火山雷まで引き起こり、死者は140人余りに及びました。噴火口は高免と古里の2カ所で、当時の模様を描いた絵が残されています。この噴火で海底噴火や隆起が起こったため、6つの島が現れました。現在でも残っているのは新島(雄島)、岩ばかりの硫黄島、獅子島、中之島といった島々です。この噴火で、住民たちは宮崎県の山田町谷頭(たにがしら) などへ移住しました。谷頭には30数家が移り住み、十字路の一角に移住の記念碑が建っています。高さ2mぱかりの粗末な自然石で、正面には"しまうつりの碑"、左側には安永8年に桜島が噴火したこと、裏には移住者の氏名が刻まれています。桜田、桜森、島盛、新島と桜島に縁のある姓で、明治になって農民も姓が許されるようになったとき、桜島を懐かしく思って付けられたのでしょう。記念碑の根元には桜島の溶岩が積んであります。


On October1. eighth year(1779) of the Anei era. an explosion from the southern side of Minami-dake caused well waters to boil and the sea turned violent. The rumbling from the volcano was tremendous. Small rocks and ash spewed out Of the volcano. The whole area grew pitch black and volcanic lightning could be seen..More than 140 people died in this eruption. Pictures drawn at the time of Komen and Furusaio.the two areas where the eruption stalled, can still be seen today. This explosion caused the ocean bed to rise and created six new islands. Of these six islands, Shinjima (also know as Moejima),the rocky island ioujima. Shishijiina, and Nakanosima still exist today.

Due to this eruption, many residents of Sakurajima relocated. 30 families are recorded to have moved to Yamada town's Tanigashira district in Miyazaki Prefecture. A monument in memory ofthe relocation stands on the crossroad of Tanigashira. The front of the 2m tall simple natural stone monument reads, "Memory of the Relocation." The story of the Anei eruption is carved into the stone. On the back side are the names of those who relocated to the area. Before the Meiji era people who were in the lower class were not given surnames. When the farmers were able to choose their names in the Meiji era,life relocated people chose names such as Sakurada, Sakuramori, Shimamori. and Shinjima to remind them of their homeland.

地続きになった大正大噴火

1914(大正3)年1月12日午前、桜島南岳の西山腹と東山腹で大噴火が始まり、翌13日夜に溶岩流が発生した。噴火は約1カ月間続き、溶岩流は近くの集落をのみ込んだ後、海をふさいで東側の大隅半島と陸続きになった。島内死傷者は約30人、そのうち20人は、あわてて冷たい冬の海に飛び込んだ事による溺死。
噴出した溶岩の量は約30億トンともいわれ、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6 km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2 km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達した。

噴火の前兆 

1914年(大正3年)1月に入ると桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されている。1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌日の11日にかけて弱い地震が頻発するようになった[39]。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されている。
1月11日には山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されている。また、海岸のいたるところで温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されている。噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されている。 
噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月10日夜から、住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり、白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答であった。

避難状況

1月11日になると、避難を始める住民が出始めた。桜島東部の黒神、瀬戸、脇の各集落では地域の青年会が中心となり、女性・子供・老人を優先に、牛根村、垂水村(現垂水市)方面への避難が進められた。また、桜島北部の西道、松浦においても、青年会が中心となり、鹿児島湾北部の重富村(現姶良市)、加治木町(現姶良市)、福山村(現霧島市)方面への避難が進められた。
一方、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は、測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となった。 


昭和噴火

1946年(昭和21年)1月から爆発が頻発するようになり、同年3月9日に火口から溶岩の流下が始まった。大正大噴火とは異なり、噴火前後の有感地震はほとんどなかった。 3月11日夜から連続的に噴火するようになり、対岸の加治木町や国分町(後の霧島市国分)から火柱が観察されている。大量の火山灰を噴出し、牛根村(後の垂水市牛根)では、3 cmの厚さに降り積もった。火山灰の影響で、同年5月に持木・野尻地区でたびたび洪水が発生している。
溶岩流は鍋山付近で南北に分流し、北側は黒神地区の集落を埋めつつ、4月5日に海岸に達した。南側は有村地区を通過し、5月21日に海岸に達した。死者1名、噴出物総量は約1億立方mであった。この噴火は同年11月頃に終息したが、その後も散発的に噴火が起きている。 

桜島溶岩分布図 Sakurajima Lava Distribution

文明溶岩は桜島の東と西へ流出し、安永溶岩は島の北東部と南側へ流れ出しました。大正溶岩はおびただしい量が特徴で、島の南東部と西に流出しました。桜島の溶岩は比較的流速が遅く、海岸に達するまで2-3日を要しました。海中に突入した溶岩は瀬戸海峡を埋め、桜島と大隅半島を陸続きにしました。島には、京都大学防災研究所附属桜島火山観測所があり、地殻変動やタイダルゲージング(潮位の観測)、地面測定などトップレベルの観測をしています。


The Bunmeilava flowed from the east and west sides of Sakurajima. The Anei lava flowed down the north eastern and southern sides of the island. The Taisho lava, characterised by its vast amount,flowed from the north eastern and western sides of the island. The velocity of the lava flow from Sakurajima in this eruption was relatively slow and took two or three days to reach the sea.It engulfed the Seto Strait and joined Sakurajima to the Osumi peninsula. The Sakurajima volcano Research Center Disaster Prevention Research Institute of Kyoto University is located on Sakurajima.

植物の宝庫桜島 Sakurajima - A Treasure Chest of Plant Life

たび重なる噴火の歴史は、桜島の植生群にも大きな変化をもたらしました。海抜50mあたりまではアコウ樹の多いアコウ帯となっています。噴火活動がなければシイやカシに覆われた森林となるところが、火山活動によって植物の破壊と復旧が繰り返したり、裸地に植物が侵入し定着する過程をたどったりします。こうして繰り返す植生は、世界的に貴重な学術資料として、桜島全体が"植物博物館"となっています。

Due to the history of continuous eruptions, Sakurajima's vegetation goes through great changes. Were there no volcanic activity on Sakurajima,the island would probably be covered with chinquapin and oak trees, However, due to the excessive volcanic activity,there is repetitive destruction and restoration of plant life. After an eruption, plant life is able to re-grow naturally. This cycle of extinction and revival is valuable from a scientific point of view and makes Sakuraiima a treasure trove of plant life.

桜島という名のルーツは?

「桜島」。ロマンチックで美しい響きをもつこの名前のルーツには、いろいろな説があります。桜島の五社大明神には神話の世界に登場する女神"コノハナサクヤヒメ"が祀ってあり、最初は「サクヤ島」と呼ばれていたのが後世に「サクラ島」になったをという説。また、島の大守だった”桜島忠信 ”の姓からとったという説もあります。

他にも、海に漂った桜の花びらが集まって島になったというロマンチックな説

熊襲の言葉で「サ」とても「クラ」切り立った 島という説があります。